
最近、clubhouseなるSNSをやり始めました。
一体何かというと、音声によるSNSですね。人と繋がって話す。ハッキリ言って終えばそれだけです。
これがなんというか、出来ないことが多いというか、非常に制限がある。
まず音質があまり良くない。仕様ということで改善されるような様子もない。なので高音質配信全盛のこの時代に音楽をかけてもAMラジオのような音にしかならない。また、音声だけでで文字や画像のやりとりはできない。ダイレクトメッセージのような機能もなく、プライベートなやりとりをしたければ二人で話すしかない。Twitterに代表される文字コミュニケーション全盛のこの時代に!!細かい点をあげるとキリがないけれど、なんだか便利なようで時代に逆行しているようなサービスであるのです。
しかし、これがなんだか面白い。
制限があるとこれをなんらかの形で克服するしようと、様々な人が様々な工夫をしだすのですね。音質が悪いならそれを逆手にとったような使い方をするユーザーもいるし、同時性の高いSNSで文字と画像が使えないことは、姿が見えないのでどんな格好でもいいという気軽さをうむメリットがある。それ以外にもいろんな工夫をするユーザーがたくさんいて、ClubHouseは今とてもクリエイティビティが高い状態だと思います。
人の性質として、まっさらな完全な自由よりもある程度の制限があった方が創造性は高まる傾向にあるってことなんでしょうかね。当初私は、この不自由さは便利になりすぎたSNSのカウンターとして出てきたものかと思っていたけれど、この様子を見るとこの不自由さは意図的に設計されたようなものなのかなと思ったりもします。
ゲームしかり、音楽しかり、人が楽しみ創造性を発揮するジャンルのものは一定のルールの元で活動をするものが多いですよね。
ルールや制限による不自由さは、自由を求める人の性向によって創造を産む。
では逆に完全な白紙・自由を与えられた時人間はどういう風に行動するのか。ま、いろんな人がいるでしょうが、社会生活を送ろうとするならば、おそらく何かのルールを作ろうとする方向に動くのは想像に難くないですね。
というか「社会生活を送る」という仮定も制限だし、そもそも人間の体も一つの制限の形であるからな。完全な自由というのはそもそも人間には有り得ないわけで・・つまり人間は、いや生物は、いやこの宇宙そのものが、そもそも存在ということ自体が、制限ということと同義であって・・・モゴモゴ。
存在するだけでついて回る制限と不自由から創造性が産まれる。常にそこにないものを求め続ける。いつでも隣の芝は青い、みたいなもんでしょうか。なんだかいつまでたっても満たされなさそうで可哀想になってきますけど、まあ上にモゴモゴ書いたように、人の為すことの真理というのはこういうことなのかもしれません。
さてそのclubhouse。
音質の悪さをモノともせず、そこで毎日セッションを試みる猛者の音楽家のみなさんと知り合いまして、私もclubhouseセッションの末席に加えていただいております。ここをご覧の方でclubhouseをやっている方がいらっしゃいましたら、ぜひ探してみてくださいませ。