大学時代のいつだったか、今や大学の同級生の奥様となった後輩の女の子が「疲れたって言葉がキライ。聞くのも言うのもイヤ」と新歓の自己紹介ページに書いているのをみて、うーむ言霊のことだね、ボクはたまに言っちゃうケド気持ちはよーくわかるよ、なんて思っていたことを思い出す。
口に出せば、言葉に出してしまえば、それまで体の各部のセンサーが漠然としたイメージとして捉えてて仄かでしかなかった居心地の悪さが、言葉というデジタルメディアによってその言葉の意味する、圧倒的不快感に昇華してしまう。そんなことは人生に不必要だ。自分の認知しないものは存在しないものと同義である。だからそんな不快な思いも定義しなければ存在しない。したがって私は今不快ではない。居心地が良いのか快感なのかと言われるとそうではない。そうではないが、そのような圧倒的不快感は、私の人生には不必要なのだ。だから定義もしないし定義もしないものに言葉などを与える必要もないし、当然口にも出さない。 く ち に だ さ な い
ふと作業デスクの右側に目をやると、温度計と湿度計が置いてある。アナログ計が好きな私は時計も温度計も針のものを使っているが、そんな愛おしい針の先は今、30の目盛りをだいぶ超えている。湿度計はというと70のあたりだ。
「8月上旬、深夜午前1時前、温度摂氏33度、相対湿度70%」私の目の前にあるのはその客観的事実だけであって、それが過去の観測データと比較してどう、とか言うことも関係がない。そういう客観的観測データと人間の主観的感想の積み上げによる不快指数だとか、そういう物差しだって今の私には関係がない。
客観的事実は事実にすぎず、それは単なる自然現象の結果であって、その環境の中にたまたま私がいるというだけのことであって、それは不快とかそういう主観的なものとは一定の距離をもって論ぜられるべきなのだ。そう、それらは近づいてはならない。近づけば、たちどころにあの言葉が造成されてしまうからだ。それは今、夜中に扇風機で耐え忍んでいる私のもっとも望まざることなのだ。
耐え忍んでいる!
耐えているというのは、何かこう、望まざる状況にいることをが前提の言葉ではないか。言葉というのは非常にデリケートなもので、ひとつの概念だけでなくそれがありうる環境や状況まで表現してしまうものだから。しかし現在の状況を私は決して望んでいるわけではないことは確かだからこの場合は正しい表現なのだろう。そう、残念だが認めよう。いまこの状況は私は望んでいるわけではない。そしてその状況の改善をこそ望んでいる。
しかし、改善するための方法はいくつかあるものの、それらは一時的な効果にしかすぎず、いまこの状況の抜本的解決には至らないことを私は知っている。ゆえに私は望まない状況を耐えているのだ。それも数時間ではない。数日単位でそしてそれはおそらく数週間単位、場合によっては数ヶ月単位となるだろう。
時間とは非常に客観視が難しい概念で、一応現在は天体の移動を軸に作られているもの、結局は生きる人間の人生時間との比較で感覚的にとらえられるものであろうと思う。私がこれから先何年生きるかわからないが、今まで生きてきた時間との比較だとしても、この望まざる状況を耐える時間は長いであろうと思える。長いんだよっ!しかも年々長くなってる気がする!
ああ、どうしても我慢がならない。これを言わずしてそもそも私の自意識・存在理由というものが担保されるのか??この宇宙はなんのためにあるのか??すまない。誰に謝っているのかもよくわからないが、これだけ客観的事実を積み上げて、自分の心象と意識から距離を置こうと試みたとしても結局は自分自身の境界線から逃れることはできないのだ。これが物理生命体の限界なのだろうか。ああ、非常に残念だ。もう喉元まできてしまっている。限界だ。認めざるを得ない。この不快感は。
暑い。
勘弁してくれ
暑すぎだろ。