少しブログの更新が止まってました。
先週の水曜日。母方の祖母である照子おばあちゃんが亡くなりました。享年93。
年末から入院してたのですが、快方に向かって退院するかもみたいな話をしていた矢先のことだったので急で驚きました。
ほんとうにあっという間というか、生命体にとって命の終わりという重いイベントであるはずなのに、まるで僕がクシャミをするのと同じように簡単に起こってそして時間に流されてしまう。儚いとはこういうことを言うのでしょう。
このブログでは照子ばあちゃんをモチーフに幾つか記事を書いています。カテゴリにある「島田家クロニクル」というのがそれですが、ちょうど4年ほど前におばあちゃんが昔住んでいた屋敷を一緒に訪ねたことをきっかけに、おばあちゃんが集めた資料を元に母方の実家である島田家のルーツを辿り調べたシリーズ記事です。「おばあちゃん」は小さいときから当たり前に近くにいた肉親でしたが、このことをきっかけに「世代を超えて連続するもの」の尊さを感じさせてくれる存在になりました。おばあちゃんが長生きしてくれて、そういう機会があったことにとても幸せと感謝を感じます。
おばあちゃんは祖父母の中で一番最後になくなりました。
義母であるおばあちゃんを見送った父は、これで一世代が終わり着実に自分の番が回ってきているなと思ったと漏らしていました。両親がいなくなったことで育ってきた家族がなくなる喪失感は大きなものだと。
実母を見送った母は一番涙を流していました。彼女が生まれた時から母であるおばあちゃんと積み上げてきた時間はこの日で終わったわけです。それは一体どんな重みをもったどんな気持ちなのだろうと想像すると、僕はそれが一番泣けてきました。その答えは僕が両親を亡くす日までわからないのですが、その日はできる限り遠い日であってほしいと思うのです。
お棺の中のおばあちゃんは生きている時と少し人相が変わっていましたが、穏やかな顔でした。
僕も連続させなければいけないと、心のどこかで衝動のようなものがあったように思います。それは生き方とか文化とかそういうことではなく、もっと根源的なものであるような。押し流れる時間に対してあまりに儚いモノのせめてもの本能的な抵抗感のような。
ひょっとしたらそれが命というものなのかもしれません。
おばあちゃん、どうぞ安らかに。
どうもありがとうございました。
島田家クロニクル シリーズ
htmx.process($el));"
hx-trigger="click"
hx-target="#hx-like-count-post-25300041"
hx-vals='{"url":"https:\/\/yujik.exblog.jp\/25300041\/","__csrf_value":"cbe580756d77bf55d8442ce8cbecdd18c31b6907dbd1e527daf40da85c9338699ab0a0820c7c313b1b11e0bb86ac1391cf7b1849c6aae075dad9e88aca492760"}'
role="button"
class="xbg-like-btn-icon">