素直な心で歴史的ヒーローに憧れていた子供の頃と違って、大人になって改めて三国志を読んでる見ると、色々な疑問が浮かんでくるわけです。
劉備って、結構行き当たりばったりで無茶苦茶なことばっかりやってるし、義の人とか言いながら妻子置き去りで逃げたりするし・・というか物語中盤まであまりに弱小過ぎてなぜこの人が一勢力と目されてるのかよくわからんし。対して曹操って実は凄い人なんじゃないだろか、とか。孔明ちょっと気取りすぎてんなあ とか。
三国志演義はフィクションも多分に含んだ物語であるからして、多少の脚色は目をつぶって読まねばならんわけです。明らかに負け戦なのによくわからん賛美の仕方をされていても、三国志は劉備ファシストなのでそれをまあ飲み込んで読むわけですね。それが三国志演義を読むときの言わばお作法であり不文律なわけです。
その不文律お作法をバッサリ斬る本があったわけです。
本書、まさに大人の三国志注釈書。
”劉備玄徳という頭領そのものが癌細胞、実は悩みの種で、人望人気の点に限ればこれ以上の親分はなかなかいないのだが、同時にどうしようもない無計画性といい加減さがネックであり、組織をシステマチックに運営する事に関してはその思考が欠落してるとしか思われず、無能と言うしかない人物なのである”(本文ママ)
バッサリ。
いや、でもまさにその通り。三国志をご存知ない方はあまりピンと来ないかもしれないけれど、赤壁あたりまでの劉備をただのゴロツキ任侠軍団とバッサリ描写する。いやーそうだよね、そうだよね。薄々思ってたけど、やっぱりそうだよね、痛快。
いろんな史料から引用比較しつつ史実を考察するのですが、一方で登場人物をまるでアニメのキャラクターのようにデフォルメして描いていて、かなり笑えます。劉備は義を言い訳にした泣きの演技を十八番とするお調子者親分、孔明はエキセントリックでパラノイア気質の社会不適合者すれすれの奇人として描かれ、奥さんの黄夫人はロポット工学の権威、簡擁は宴会下ネタ芸のオーソリティとなっているような具合。おまけに次巻では劉備と魯粛がBLに目覚める予感。
無計画でなおかつ無茶でありかなり破綻した人格でありつつも魔性ともいえる人格的魅力を放つ人物と、それに魅かれて付き従う人々、という構図は歴史モノではよく見られるし、現代でもけっこう見られるパターンのような気がしますね。
三国志の面白い所のひとつは登場する武将のキャラクターがとても人間味あふれる描写なので、どこかに自分を投影しながら読める事。いまの自分はさしずめ誰だろうか・・・と想像しながら読むのは面白いし、登場人物同士の関係性も、自分の周囲と当てはめながら読むととてもリアリティがでてきて面白い。その点でも本書は多少デフォルメあれど人物描写が鋭いので面白い。
そんな歴史ドラマの襞を、オトナのリアリズムに答えつつおもしろおかしく描く本書。
サイコーです。
久しぶりに爆笑しながら読書してます。
三国志好きな人にはオススメ。
知らない人は、横山光輝三国志(60巻)か、吉川英治三国志(8巻)を読んでから読むのをオススメいたします。