昨日の引き続いてフルトヴェングラー本の話ですがね。
とても興味深い話がありました。
第二次世界大戦中のベルリンフィルで演奏していた元楽団員の話。
1945年当時、戦争の敗色強いベルリンは、毎日の様に空襲に晒され街は文字通りの廃墟になっていたようで、200万人いた市民のほとんどは地下の防空壕での生活を余儀なくされていたようです。
そんな極限状態にもかかわらず、ベルリンフィルの演奏会は、ベルリンに迫ったソ連軍が街に向けて一斉砲撃を始めるその日まで、定期的に開催されていたのだそうです。それも連日満員という状況で。
楽団員曰く
「極限状態でも生活は粛々と営まれる。そして、状況が絶望的になればなるほど、人間は心の安らぎや、気分転換を求める。まさにそれが音楽でした」(本文ママ)
いやいや、納得できそうで、それは凄い話だな・・・と思います。
すぐに思い出したのが震災直後の音楽家の慰問の話。
避難所に慰問に行った音楽家はたくさんいらっしゃるし、それによって救われた方々もたくさんいらっしゃると思いますが、衣食住もままならないそれこそ極限状況で芸術に触れる余裕があるのか、という声もあったと思います。
単純に比較はできませんが、極限状態でも芸術を愛でられるのか、という話はかなり繊細な話だと思うし、そんな中で演奏会がかならず満員になっていた、という話にはとても驚きです。
それは、
極限状態でも芸術を愛でる心がある、文化的・精神的な成熟度が高い事だと見なすべきなのか。
当時のベルリンフィルはナチスのプロパガンダの一翼を担わされていましたから、追いつめられる中でベルリン市民の国威発揚の最後の拠り所だったと見るべきなのか。
あるいは、極限状態で求められる拠り所となるべき民族の根源的な文化・美意識の象徴=音楽=ベルリンフィルだったのか。
絶望的な状況になればなるほど、例えば神や仏に祈るように、人間は精神的な拠り所を求めるものだと思います。それがベルリン市民の場合、音楽=ベルリンフィルであったとすれば、それほどまでにベルリン市民に愛され、浸透している文化としての成熟度の高さにとても驚きます。
そして日本の場合、それは一体何にあたるのだろうか、とも考えてしまいます。
誰もが愛する日本の自然・国土、花鳥風月なのか。
それとも天皇陛下か・・・。
極限状態に見える、民族の精神構造というか。
とても興味深いトピックでした。
写真はソ連とナチスの市街戦直後のベルリンの様子(wikiより)。
去年の4月8日から毎日更新を始めて、来週で一年です。
いやーよく続けたな。
一周年、何やろう、何書こう。
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