夏の終わり頃にばあちゃんからブドウと供にお便りが届いた。手が震えるゆえ乱筆失礼、と断りながらも、かつて看板書きの仕事ができるくらい達筆だったばあちゃんの手紙はとても端正な字が並ぶ。
今回のばあちゃんのお便りの中には、津山藩初代藩主、森忠政公に関する新聞記事が同封されていた。津山藩初代藩主、つまり城下町の名残深い今の津山市中心部の礎を作った人物だ。この人物もまた島田家と浅からぬ関係にあったらしい。
島田家クロニクルは、いつもばあちゃんからのお便りから始まる。
前回は室町時代前期の島田家のお話でしたが、今回は戦国時代から江戸時代までを生き抜いた森忠政公のお話。
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森蘭丸、といえば戦国武将好きはあるいはピンと来るのかもしれない。織田信長の小姓として仕え、本能寺の変で信長と一緒に戦死している。森忠政はその蘭丸の弟にあたる。父親は森可成。信長がまだ尾張国の一土豪の首領にすぎなかった頃から仕える武将である。家系の元をたどれは清和源氏の一家系、河内源氏の傍流で、本姓は「源」であるというからかなりの名家筋ではある。それが同じく源氏傍流の土岐氏に仕え、信長の尾張平定、美濃攻略の過程で織田の家臣となった。
忠政は、その森可成の6男として生まれた。生まれた年に父親の森可成は織田と浅井・朝倉の戦いで戦死している。幼名は千丸。兄の蘭丸らと供に信長の小姓として仕えていたが、本能寺の変によって兄たちが相次いで戦死。安土にいた千丸は難を逃れる。その後、家督を継いでいた次兄・長可の旧領・美濃金山に身を寄せるが、その長可も小牧長久手の戦いで豊臣側について戦死。そのまま森家家督を継ぐ事となった。秀吉に仕え、信濃川中島に転封となった後、関ヶ原の合戦では家康側に付き、信州上田の真田氏および越後の上杉景勝を牽制。その功績によって美作国一国を与えられ、1603年、森忠政は川中島より美作入りする事になる。
美作国に入った際、忠政は当初、それまで美作の中心地であった院庄に城作りを計画した。その際、城建設までの仮住まいとして本陣を置いたのが、当時、院庄で有力氏だった、島田家の屋敷だった、というわけだ。その翌年1604年、忠政の嫡男、後の忠広がこの島田の屋敷で生まれている。それを記念した石碑が今、島田家の屋敷の前に立っている。
左 島田家屋敷に立つ石碑
右 ばあちゃんの手紙に同封されていた石碑文
院庄に城下町作りを目指した忠政公だったが、家臣同士のいざこざによって院庄築城を中止する事になる。院庄に替わってその築城の候補地となったのが、当時は田中ノ郷山北村という村にあった鶴山(かくざん)。ここへ城を築き、城下に街をつくることとした。これが津山の始まりだ。
津山は今も城下町文化が色濃く残る街だ。寺も多く古い町並みも多く残る。もちろん再開発も進み現代的な建物も多いのだけれど、忠政公に始まる城下町文化は今も街と供にあると感じる。ばあちゃんのように津山に生まれ、長く暮らして来た人にとってはこの街の開祖である忠政公は街と同じく親しくて尊い存在であるのかも知れない。忠政公と島田家がこういう関わりがあったと話して聞かせてくれた時、ばあちゃんはとても嬉しそうだった。
この忠政公が院庄を諦めるきっかけとなった家臣同士のいざこさは"にらみあいの松の凶事"と呼ばれて、今もその跡が残るが、これがたどるとなんと歌舞伎の創始者とされる出雲阿国を巻き込んでの意外な展開を見せる話になる。これはまたクロニクル外伝ででも、紹介します。
さて院庄から忠政公が離れ、美作の中心が津山に移った後も島田家はこの地の大庄屋、つまり村の役人として有力氏であり続ける。江戸中期には本家を「元屋(もとや)」、隣の分家を「築地(ついじ)」と呼んで栄え、幕末までその家は続くこととなる。
つづく
島田家クロニクル その1
http://yujik.exblog.jp/18837336/
島田家クロニクル その2 照子ばあちゃんの思い出
http://yujik.exblog.jp/18854179/
島田家クロニクル その3 ササガニの家紋
http://yujik.exblog.jp/18971529/
島田家クロニクル その5 記憶本能
http://yujik.exblog.jp/20422122/