先週、ばあちゃんからお盆のお礼にと、生活用品やら入った荷物が届いた。一人暮らしの孫を気遣ったいわゆる「救援物資」というヤツだ。荷物の中にはばあちゃん自筆の手紙が入っていた。手が痛くてなかなか字が書けんのんじゃ、と言っていたばあちゃんがわざわざ自筆で書いてくれたのには、さすがにグッと来た。
手紙にはお盆のお礼、健康に留意せよ、と肉親らしい気遣いの言葉が並んでいて、最後に石碑の記録と家紋の由来を同封しますとあった。上の写真がその家紋の由来。
島田家の家紋は「ササガニ」と呼ばれている、なんだかとてもユニークな形をしている紋。墓にも書かれていたのを小さいときから何となく見ていたし、先日の墓参りの時にも見た。
ばあちゃんが送って来たのは、家紋の謂れが数行書かれている紙だったが、これが調べてみるとなかなか由来の古い家紋だった。
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島田家は、藤原秀郷を祖とする家で元々「須井」と名乗っていたらしい。
藤原秀郷は平将門の乱を平定したあと関東に留まり、関東の多くの武家諸氏の祖となっているから、きっとその諸氏のなかの一家だったのだろうと推察できる。当時はまだ藤原姓であったと思われるが、将門の乱の後、藤原純友の乱の平定に従ったのか、伊予(愛媛県)に居住している。
その後、壇ノ浦の戦いで源氏に従い平家殲滅に功があり、鎌倉幕府の命により院庄守護職になった梶原景時に従って院庄入りしたらしい。院庄とは当時の美作国の中心地。ばあちゃんの住んでいた島田屋敷のある一帯。梶原景時はご存知、鎌倉幕府を開いた源頼朝の右腕であった重臣で鎌倉開府初期に権勢を振るった武将である。
その梶原景時に従って院庄入りして現在の津山市神代にある須井山というところに城を構えたことから、藤原姓から「須井」と名前を変え、土豪としてその地に住み着いたということらしい。鎌倉からの守護職の臣下ということで、院庄では有力氏となり得たのだろう。
時代が下って鎌倉末期、倒幕を企てた後醍醐天皇が元弘の乱で捕らえられ、隠岐島に流される。その道中、中国道の交通の要所でもあった院庄に入った。その際、当時の須井家の当主、須井秀元が後醍醐帝の御座所にてお茶を献上し、帝の道中を慰め申し上げた。以後、須井家はこの後醍醐帝と縁が出来、後醍醐帝が隠岐から脱出し再挙兵した際も、須井秀元の子、秀則が後醍醐帝に従って楠木正成らと吉野に入って足利勢と戦ったのだという。
ある日、吉野の渓流で秀則がノドを潤そうと器で水を汲んだらば、器の紐に笹の葉を挟んだ蟹がついて上がった。この出来事を、天皇を守り天下にかける戦いの吉瑞として、家紋にすることにしたのだという。
(参考:津山朝日新聞連載記事 「院庄ものがたり」)
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なんともはや、まさかの後醍醐天皇ゆかりの家紋だとはビックリだが、家紋たった一つで時代をここまでさかのぼれるというのもとても興味深い話。
ちなみに下の写真はばあちゃんちで見かけた家紋入りのお盆。こうやって生活の中にその縁が紛れ込んでいるのだから、祖先の名残というのはなかなかに侮れない・・・というかほんのちょっとしたことにこうやって先祖の記憶が遺されているのは凄いことだと思う。
南北朝の混乱期を後醍醐帝側について戦った須井家はその後、戦火の度にあちこち転住したらしい。
津山朝日新聞の連載記事「院庄ものがたり」によれば、1521年大永年間に、駿河の島田(現・静岡県島田市)から 秀里 という人を迎えて、それにより須井から島田に姓を替え、須井氏は絶えたとある。
ところが先日、ばあちゃんと一緒に訪れた清眼寺には島田家の菩提寺として位牌の記録があって、なんと一番古い記録は室町時代までさかのぼっていた。それによると、
島田権大夫秀重 寛正二年(1462年)八月二十八日没
とある。以下の写真が清眼寺の位牌の記録。
「院庄ものがたり」の記事にある島田家のはじまりよりも70年ほど前に、すでに美作で島田姓を名乗っていたことになる。しかも、清眼寺の位牌の記録には、島田秀里という人の名前はない。
うーむ
この辺りの食い違いはいったいどういうことなのだろうか。
ちょっとした歴史ミステリーだ。
つづく
島田家クロニクル その1
http://yujik.exblog.jp/18837336/
島田家クロニクル その2 照子ばあちゃんの思い出
http://yujik.exblog.jp/18854179/
島田家クロニクル その4 森忠政公の石碑
http://yujik.exblog.jp/19404670/
島田家クロニクル その5 記憶本能
http://yujik.exblog.jp/20422122/