最近、ちょっと時間をかけて文章を考える気力というか集中力がなくて、なんだかブログもやっつけな感じになってしまっているんですが、日々、けっこういろんな事を考えては泡の様に消えて行っております。消えた泡はまた戻って来て思考が深まる場合もあればそうでない場合もあるような。
たいていがその、美味しいもん食べたいナァとか、ちょっと今の子可愛かったんじゃないの、みたいな高邁な精神世界とは全く持って一線を画す俗な気分によって思考は妨害されていくのが常なんでありますが。
モノの価値とは何ぞや、とブチあげてしまえばですよ。世相を憂い未来の為に有益な思想を頭の中で練り、それが実現に向かって動き出したときの精神的満足感と、動画サイトで壇密の超秀逸な下ネタ動画を(しかも深夜に)見て大笑いして得られる精神的満足感てのは一体どっちが価値のある事なのかと言われれば、それはまたそれで人間も生物であるからしてその欲望を肯定するがために、高邁な俗気というものが存在するのではなかろうかとか、いやむしろ俗気こそ高邁な精神世界であるとか、はたまた社会的思想と俗な欲望は紙一重であるとか、まあそんな下らないことがまた流れに浮かぶうたかたのようにかつ消えかつ結びなのであります。
つまるところ需要曲線と供給曲線の交差するあたりの数値的なところで価値が決定される話では、ちょっともう、まとまらんというかケリがつかないわけですよね。そういう意味ではもう終わってるのだと思うのだなあ。経済的価値というやつは。
音楽をはじめとする創作活動に代表されるような頭脳労働は消費材としては大した生産物を生み出さないけれど、たとえば消費材を宣伝する広告活動は消費に直結するからリターンがある。故に貨幣的価値としては広告宣伝活動に軍配が上がり、創作活動は肩身の狭い思いをする。結局のところ、目に見える形でのリターン(オ♡カ♡ネ)が基準だと、価値の判断が楽なんでございますね。
人間楽をしたがる、効率よくいい生活をしたい。という欲・心理をうまーいこと社会システムに組み込んだのが資本主義とやらですから、この数百年、言ってみれば、ダラけにダラけきってしまったのかもしれません。そりゃ欲を断とうとか、煩悩が108つとか、そういう話にもなりますわいね。まあ仏教はもっと前からの話か。でも古い宗教が死なない理由は、人間が同じことに負け続け、悩み続けているからでしょうな。
価値の判断をするというのは、ほんとうは、その人間そのものだから、時間をかけた己の考察が要求される。見つけてしまえばシンプルなんだけど、ほら、それは壇密さんとかそういうのに邪魔されて、なかなかたどり着けなかったりするわけですよ。高邁コウマイな精神価値は、安価な俗気によって紛らわされてしまうんですなあ。だってそっちの方が、楽だから。それに対して誰か決めた価値を自分で払えばいいんだもんね。誰も苦行を積んで考えるなんて周り道なんかしませんよ。
豊かさに負けちゃいけない。
壇密さんの下ネタは超秀逸で、今まで見て来たどんな下ネタ芸人よりも面白いけど、それに負けちゃいけない。いや、壇密さんは素晴らしい。だって最強だよね。女性としてちゃんと奇麗ななりであんな面白い事言うんだもん。アイドルが並のお笑い芸人より面白い的にルール違反だ。それをやってしまうとそれで満足してしまって他いかなくてもよくなっちゃうじゃないか。そしたらつまるところ、人の個性というかさあ。分業というかさあ。アダムとイブが別々にされちゃった意味さえなくなっちゃうんじゃないの?みたいな高邁な精神世界とは全く持って一線を画す俗な気分によって思考は妨害されていくのが常なんでありますが。